今はフランスの町並みを描いている。
毎日少しづつだ。
きっとあのユトリロも通ったであろう
ピンク色のカフェの見える通りだ。
レストランだっけか・・・まぁいい。
完成しそうでいて
なかなか終わりにたどり着けないが
アートなんてみんなそんなものだ。
終わらせたいからといって急いだって
ろくなものはできない。
己の描いている途中の絵を見ながら
ぼんやりと考えていた。
テーマなくぼんやりと・・・。
表現にとって大切なのは
なんだろうか、みたいなことだったろうか・・・。
絵画技法は自然界や自分以外の対象を
分析して、時にはその対象を
コントロールするような科学であって
そういうアプローチの方法は
アジア圏より圧倒的にヨーロッパのものを
学んだほうが良いし触れたほうが良い。
アジア圏では対象と一体化する方に重心がある。
ヨーロッパ圏では外界のものは
自分の思うがままにならない
敵みたいな対象としてそれらは存在していて
うまく打ち勝つために常に分析されてきた。
というのが自分の浅はかな考え方だ。
禅などがわかりやすいだろうか・・・。
困難を乗り越えるのではなくて
己の心理作用をより深い真相の場所で捉えて
許すことや諦めることを得意とする。
ヨーロッパ圏の狩猟民族的思考では
とにかく思い通りにならないものは打倒し
屈服させ、その上で余裕を持って
心を広くして対応する。
禅的な趣とはすごく差異がある。
まぁ偏見と不勉強なゆえの
俺の偏った捉え方かもしれないが
西洋人の優しさや余裕というようなものは
完全にマウントを取れる相手にしか
発動しないと思っている。
本題に話を持ってゆくが
科学的に描くことを習い、覚えたら
あとは誰でも同じように完成度の高い絵が描ける。
必須科目として授業やなんかで
もう少し詰めて描くことを学ぶ機会さえあれば
あっという間にすべての人間の描くレベルは上がる。
まぁある意味日本では永久に根付くはずもない
自己表現の部類の技法だが。
横に習えでは決してたどり着くことができない
己だけの世界の心象吐露。
重要なことはそこに技術など必要か?
ということだ。
きっと答えは否だ。
不器用な人間、絵を苦手とするような人、
生まれつき描くことに向いていない人。
そんな全ての人にも
その人にしか描けない景色が存在している。
表現種類を絵画に絞らずに
もっと広げて考えてみても構わない。
運動神経の悪い人のダンス。
音痴の人の歌唱。
必ずそれぞれにその人だけにしか
表出不可能な表現というものがある。
もっと勉強しなけりゃ
もっと練習しなけりゃダメだよ
なんて赤の他人が、上位者気取りが
偉そうな御託を言ってみたところで
個々人の限られた時間の中で
表された世界が、ただの思慮の浅い言葉や
定義や、常識や、流行なんかに
飲み込まれて負けるわけがないんだ。
誰かに向けられたアンチテーゼは
その一瞬のその時の
たった一人の言葉に過ぎない。
百人いたって一人は一人だ。
数に頼んだ力なんかで
打ち消されるようなひたむきな表現なんて無いんだ。
あらゆる物事は時代時代で
その時に存在している人間どものうちで
勝手に意味づけされてゆく。
タグ付けと言っても構わない。
でも表現者本人の、あるいは森羅万象の
直接の声を聞いていない者たちが
いくら暇に任せてああでもないこうでもないと
言ってみたところで、
それらは意味でもなんでもなくって
心理でもなんでもなくって
ただの独りよがりな暇つぶしに違いない。
業火の中に取り残された人間は逃げることに必死だが
その外にいることができる人間は
余裕たっぷりと御託を並べる事ができる。
現代とはそんな能書き時代だが
たった一つの己の作品を
誰かの脳に投げつけることができる人間は
ごくわずかしかいない。
どっちのほうが生きることに前向きで真摯であるか・・・。
正しい丸を描く方法を
百萬遍言える人間よりも
歪んだ下手くそな丸を
自身で延々と描き続ける人のほうが
意味を持って生きているということなんだよ。
意味もなく色々なことを言える、知っている人よりも
意味もなくたった一つのことに固執する人間の方を
俺はより天国に近い、真人間だと思う。
だって今生きている人間の成した何かなんて
百年もしないうちに忘れさられるし
新しい今日出てきたものの方に
常に人々の関心は向くんで
どっちのほうが真理なんかなんて
誰も実は気にもとめてやしないのさ。
貴方は何を残す?
どうせ意味もない
誰の得にもならない
いついなくなったって
それほど重要じゃない自分と人間がいる世界に
意味なんてなくて良いんだよ。
意味があるせいで
反対の意味を指示する人たちと喧嘩になる。
五体満足に生きて
死んでゆくことが
意味があることとするならば
五体不満足で
野垂れ死ぬ人に
まるで意味がないみたいじゃないか
あんたの生き様なんて
世界のどこの誰にとってみても
実は意味はないんだよ
ただそうすることで
あんた自身の性的欲求が満たされるだけなんだよ。
だったら品があったほうが良いと
俺はそう思うね。
あんたの命の時間の大半を占めている音楽があったとしたって
それは別に世界の共通の認識や
捉え方や満足さとは違うんだよ。
所詮は無名なあんたの大好きな
音楽の感じ方だったってことでしか無い。
『いや違うよ、たくさんの共通の仲間がいるんだよ。』
そう言ってみたって
死ぬときにはたった一人なんだぜ?
そういう生き様なんかに何の意味も真理もない。
『沢山の人々に支持されました。』
いや俺は嫌いだね。
『教科書に載りました』
俺は読んでないよ?
『一千万人の病気の人を救いました』
ああそうそれは素晴らしい。
でも中には人殺しもいるだろうね?
『常に心が餓えている』
満たされると良いね
一つ二つ俺も手がかりを探すよ
俺だって俺の楽しみや幸せで忙しいから
そんなにずっとは付き合えやしないけどね
世界一のお城の世界一座り心地の良い椅子に
座って、最高の美酒を飲んでたって
満たされやしないよね。
意味がない人生なんて退屈で仕方がないんだから。
意味とは苦悩のことじゃないかとすら思えてくるよ。
俺はね。
じゃあまたな。
つまらない長生きが趣味のお前たちよ
またな。
誰が勝ったとか宇宙の謎がまた一つ解けたとか
猫の可愛さや神秘さには程遠い。
毎日少しづつだ。
きっとあのユトリロも通ったであろう
ピンク色のカフェの見える通りだ。
レストランだっけか・・・まぁいい。
完成しそうでいて
なかなか終わりにたどり着けないが
アートなんてみんなそんなものだ。
終わらせたいからといって急いだって
ろくなものはできない。
己の描いている途中の絵を見ながら
ぼんやりと考えていた。
テーマなくぼんやりと・・・。
表現にとって大切なのは
なんだろうか、みたいなことだったろうか・・・。
絵画技法は自然界や自分以外の対象を
分析して、時にはその対象を
コントロールするような科学であって
そういうアプローチの方法は
アジア圏より圧倒的にヨーロッパのものを
学んだほうが良いし触れたほうが良い。
アジア圏では対象と一体化する方に重心がある。
ヨーロッパ圏では外界のものは
自分の思うがままにならない
敵みたいな対象としてそれらは存在していて
うまく打ち勝つために常に分析されてきた。
というのが自分の浅はかな考え方だ。
禅などがわかりやすいだろうか・・・。
困難を乗り越えるのではなくて
己の心理作用をより深い真相の場所で捉えて
許すことや諦めることを得意とする。
ヨーロッパ圏の狩猟民族的思考では
とにかく思い通りにならないものは打倒し
屈服させ、その上で余裕を持って
心を広くして対応する。
禅的な趣とはすごく差異がある。
まぁ偏見と不勉強なゆえの
俺の偏った捉え方かもしれないが
西洋人の優しさや余裕というようなものは
完全にマウントを取れる相手にしか
発動しないと思っている。
本題に話を持ってゆくが
科学的に描くことを習い、覚えたら
あとは誰でも同じように完成度の高い絵が描ける。
必須科目として授業やなんかで
もう少し詰めて描くことを学ぶ機会さえあれば
あっという間にすべての人間の描くレベルは上がる。
まぁある意味日本では永久に根付くはずもない
自己表現の部類の技法だが。
横に習えでは決してたどり着くことができない
己だけの世界の心象吐露。
重要なことはそこに技術など必要か?
ということだ。
きっと答えは否だ。
不器用な人間、絵を苦手とするような人、
生まれつき描くことに向いていない人。
そんな全ての人にも
その人にしか描けない景色が存在している。
表現種類を絵画に絞らずに
もっと広げて考えてみても構わない。
運動神経の悪い人のダンス。
音痴の人の歌唱。
必ずそれぞれにその人だけにしか
表出不可能な表現というものがある。
もっと勉強しなけりゃ
もっと練習しなけりゃダメだよ
なんて赤の他人が、上位者気取りが
偉そうな御託を言ってみたところで
個々人の限られた時間の中で
表された世界が、ただの思慮の浅い言葉や
定義や、常識や、流行なんかに
飲み込まれて負けるわけがないんだ。
誰かに向けられたアンチテーゼは
その一瞬のその時の
たった一人の言葉に過ぎない。
百人いたって一人は一人だ。
数に頼んだ力なんかで
打ち消されるようなひたむきな表現なんて無いんだ。
あらゆる物事は時代時代で
その時に存在している人間どものうちで
勝手に意味づけされてゆく。
タグ付けと言っても構わない。
でも表現者本人の、あるいは森羅万象の
直接の声を聞いていない者たちが
いくら暇に任せてああでもないこうでもないと
言ってみたところで、
それらは意味でもなんでもなくって
心理でもなんでもなくって
ただの独りよがりな暇つぶしに違いない。
業火の中に取り残された人間は逃げることに必死だが
その外にいることができる人間は
余裕たっぷりと御託を並べる事ができる。
現代とはそんな能書き時代だが
たった一つの己の作品を
誰かの脳に投げつけることができる人間は
ごくわずかしかいない。
どっちのほうが生きることに前向きで真摯であるか・・・。
正しい丸を描く方法を
百萬遍言える人間よりも
歪んだ下手くそな丸を
自身で延々と描き続ける人のほうが
意味を持って生きているということなんだよ。
意味もなく色々なことを言える、知っている人よりも
意味もなくたった一つのことに固執する人間の方を
俺はより天国に近い、真人間だと思う。
だって今生きている人間の成した何かなんて
百年もしないうちに忘れさられるし
新しい今日出てきたものの方に
常に人々の関心は向くんで
どっちのほうが真理なんかなんて
誰も実は気にもとめてやしないのさ。
貴方は何を残す?
どうせ意味もない
誰の得にもならない
いついなくなったって
それほど重要じゃない自分と人間がいる世界に
意味なんてなくて良いんだよ。
意味があるせいで
反対の意味を指示する人たちと喧嘩になる。
五体満足に生きて
死んでゆくことが
意味があることとするならば
五体不満足で
野垂れ死ぬ人に
まるで意味がないみたいじゃないか
あんたの生き様なんて
世界のどこの誰にとってみても
実は意味はないんだよ
ただそうすることで
あんた自身の性的欲求が満たされるだけなんだよ。
だったら品があったほうが良いと
俺はそう思うね。
あんたの命の時間の大半を占めている音楽があったとしたって
それは別に世界の共通の認識や
捉え方や満足さとは違うんだよ。
所詮は無名なあんたの大好きな
音楽の感じ方だったってことでしか無い。
『いや違うよ、たくさんの共通の仲間がいるんだよ。』
そう言ってみたって
死ぬときにはたった一人なんだぜ?
そういう生き様なんかに何の意味も真理もない。
『沢山の人々に支持されました。』
いや俺は嫌いだね。
『教科書に載りました』
俺は読んでないよ?
『一千万人の病気の人を救いました』
ああそうそれは素晴らしい。
でも中には人殺しもいるだろうね?
『常に心が餓えている』
満たされると良いね
一つ二つ俺も手がかりを探すよ
俺だって俺の楽しみや幸せで忙しいから
そんなにずっとは付き合えやしないけどね
世界一のお城の世界一座り心地の良い椅子に
座って、最高の美酒を飲んでたって
満たされやしないよね。
意味がない人生なんて退屈で仕方がないんだから。
意味とは苦悩のことじゃないかとすら思えてくるよ。
俺はね。
じゃあまたな。
つまらない長生きが趣味のお前たちよ
またな。
誰が勝ったとか宇宙の謎がまた一つ解けたとか
猫の可愛さや神秘さには程遠い。